top of page

これまで何人かその場に立ち会ったけれど、その瞬間のすべてを静かに見せてくれたのは、介護してた叔母でした。

その日は、初めてお会いした、叔母の姪御さんと私と2人、施設のお部屋でした。

もともと叔母は不安が高かったので、2人で手を握り、叔母には「今ね、美しくて楽しい音楽隊がお迎えにきてるそうだから、その美しい音色が聞こえてきて、金のお舟が到着したら、サッと乗っていけばいいよ」と言ったら、うんうんと小さく頷いて、しばらくすると最後にため息のように大きく息を吐いて、瞳孔が開いてゆきました。スーッと命が出てゆくのを2人で見届けました。

逝った?うん、逝ったね。穏やかだったね。スムーズによかったね。

涙ではなくほっと笑顔で送り出すことができたこと、感謝しています。

2014年3月、肝臓がんの父を見送り「あ~やれやれ、これで羽伸ばせるわ~」と憎まれ口を言っていた母。しかしほどなく自分ががんであることがわかりました。胆管がんでした。

 

2016年3月、2度にわたっての大きな手術をしました。しかしすべてを取り切ることはできず、術後の抗がん剤治療をすすめられました。84歳での手術は今まで健康だった母にとっては体力、精神力共にダメージがひどく、治療どころではなく悩みながらもしないことに決めました。後の寿命は「長さより質」行きたいところに行き、食べたいものを食べ、会いたい人に会う、それをモットーに過ごすことにしていました。 2017年夏、調子が整わない中、京都から私の住む神奈川県の藤野にやってきました。大好きな藤野のミュージシャンのライブには出かけるものの発熱。藤野での主治医で母の大好きなI先生から「もう帰った方がいい」と言われるまで寝込みながらも粘っていた母でした。「ずっとここにいたら」と話しても「厚かましい、旦那さんに悪いは。そういうわけにはいかへん。長男がいるのに。」とかたくなでした。

帰る朝、我が家を見上げ「もう来られへんなー、ここへも。」とつぶやいたのが忘れられません。藤野へ来るのが大好きでした。

 

父を亡くした後一人暮らしの母でしたが、道の向かいに兄家族、長い付き合いの友人、ご近所、寝込んでからも大変お世話になりました。

兄夫婦は母の意思を尊重し最期まで自宅で過ごすことを選択してくれました。これにはかかりつけ医の先生が「僕が最後まで診るよ」と心強い言葉がありました。そしてケアマネージャーさんの親身な提案によりデイケア、社会福祉協議会の昼食サービス、ヘルパーさん・・・多くの力をお借りすることに母も同意しました。そのため兄夫婦は今まで通り仕事を続けながら母の介護と向き合うことができました。ご近所の方々、友人の来訪は母の楽しみでもありました。リビングのテーブルに置いたノートに来た人が母の様子を書いたり、絵をかいたり、多くの皆さんに見守られていました。

 

私とは毎日電話で話し、日々の生活を伝え、お互いに励ましたり励まされたりし支え合っていました。12月、娘の大学受験の失敗を伝えると「はーそうかー、そんなもん、どおちゅうことないわ。あんたかて落ってるやんか。一緒や。それより、しんどてそれどころやないわ」と本音がぽろり。確かに、受験よりなにより生き死にの方が重要です。

 

暮れも押し迫った時に母の元へ帰りました。帰ったその日に「あんた悪いけど見積もりもろてきて」と、私に葬儀場の見積もりを取ってこさせました。そこはすでに母は下見、試食済みの葬儀場です。見積もりを見て「葬式は家でするのはやめて会館でするし○○さんと△△さんに連絡をして来てもろて~。」とベッドから友人に電話をかけていました。私には、「あんた、喪服くらいきっちり着いや~。」と。そして「私は紫の無地の紋付で頼むわ。へその緒も忘れんと2つとも入れてや」と。また、私と義姉に自分の持っている宝石類を振り分け「よかったらつこてや」とも。

最後に、どうしても京都新聞の「こまど」に投稿したいと私に語り始めました。「こまど」投稿は母の趣味で折に触れ思うことを投稿していました。母の言葉を聞き書きし、読み上げては直し、読み上げては直しを繰り返し完成させました。「これは必ず載るわ」そう言い切っていました。

 

2018年、年をまたいで元旦からも毎日主治医が訪問、松の内が明けるころ兄と私を家の外に呼び「寝てはるように見えても、ようよう聞こえてはるからな。話しかけたげてや。もうそろそろやからな。」と言われました。 1月5日、その時はすぐにやってきました。リビングに置いたベッドで一番陽が差し込む朝、家族に囲まれ、お世話になっているヘルパーさんの到着を待ち旅立ちました。私はというと、なりふり構わず「いかんといて~」と泣き叫んでいました。

 

根っからの京都人の母。楽しく朗らかに、けれど周りには気遣いを忘れず、でもやりたいことはこそっとやり通す母。来世があるなら、また私は貴女の子どもになりたいと心から思っています。

 

※そして京都新聞2018年1月12日「こまど」に母の宣言通り掲載されました。


「遠ざかる昭和」

 

 学徒動員の女学校時代、いつでもお腹がすいていた。食べるものといえば芋のつるに豆かすごはん。弁当はいつも真っ赤だった。けれど、口に入るだけでありがたかった。

 物々交換で農家に着物を持って食べ物を分けてもらったこと。「行ってきます」と出かけて必ずまた家族と会える保証のない毎日。生きていられるだけで感謝だった。

 けれど、「昭和は遠くになりにけり」そんな言葉を聞くとなぜか淋しさを感じている。

食べ放題のバイキング、行列のできるラーメン屋さん。飽食の時代にどっぷりつかり、その中に自分がいる。昭和一桁の私にとって今の時代は夢のようであり生きていること自体が奇跡である。

 昭和の上に平成が成り立ち、その先に新しい時代が積み重なる。病床のなかで天井を眺めしみじみ考えてみた。どんなに時代が進もうと決して忘れてはいけない、あの激動の昭和があればこその今があることを。



 数年前に実父を病院で看取りました。父は死を非常に怖がっていて、がん末期を告知された時に、終活ノートについて触れると、「早く死ねということか」と怒鳴るくらいで、だれも何も言えず、ただ時間が過ぎていきました。本人も私以外の家族も、一時帰宅や在宅での看取りを想像もしていませんでした。知識も自信もなく、また本人は何かあったらという不安が強かったためです。   主治医から「自宅に帰るなら今が最期のチャンス」と勧められても、本人も家族も動きませんでした。最終的には、主治医から医療職の私に直接勧められ、1週間後の一泊の一時帰宅のため、昼休みは電話をかけまくり、在宅酸素や介護タクシー、訪問看護や万が一の時の訪問診療を手配しました。大変だったにもかかわらず、家族からも本人からも文句ばかりで、心の中では正直やらなければよかったと後悔しました。でもその3週間後、本人の希望で家族が手配し、もう一泊外泊することができました。外泊から1か月過ぎたころ、意識レベルが低下しました。今まで父にケアを拒否されてきた看護師たちと結託し、毎日仕事から早退して一緒に清拭を行いました。一緒に口腔ケアをし、伸び放題の髭をそり、院内の理髪店に来てもらって、散髪もしました。亡くなった時には、父の体はピカピカでした。私の職場の理解もあり、また病棟のすばらしいナースたちの協力や配慮もあって、院内の看取りではありましたが、私には「やり切った」というすがすがしい思いが今もあります。   主治医の先生、病棟の看護師の皆さんには、本当に感謝しています。当時の父が想像できなかった在宅での看取りを、この「あなたのおみとり」という映画は、イメージして選択肢の1つにする助けとなると思います。

1
2

「あなたのおみとり」体験談

 

みなさまからご投稿いただいた体験談をご紹介いたします。

bottom of page