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看取りと言えば、普通はお年寄りの看取りとなりますが、私の場合は小学生の子供二人を抱えた41歳の妻の看取りでした。

がんの中でも一番症例の少ない副甲状腺がんを煩い、大学病院の医師も手探りの療法を繰り返して、何年も入退院を繰り返し何回も手術をしたのちに、あとは命が絶えるのをただただ待つだけの状態になった時に、私の高校時代の同級生で亡命チベット人医師が、最後は俺のところに連れて来いよと声をかけてくれて、彼に任せました。

彼は、俺はお前の奥さんの病気は治せないけれど、最後にもう一回笑顔を作ることはできるからと言い、懸命の治療をしてくれました。

大学病院にいる時は、死人の顔をしていたのが、頬に赤みがさし、穏やかな顔になり本当に笑顔が戻ったのです。

亡くなる前日には、義父が今日はお前たちの結婚記念日だからといってケーキを買ってきてくれました、するともうほとんど食べられなくなっていたのに、ベットに腰掛けてニコニコしながらケーキを食べていたのです。

そして次の朝、子供たちや親兄弟に見守られながら静かに息を引き取りました。

約5年にわたる最後は声帯まで取り声を失うほどの凄まじい闘病生活でしたが、妻の子供たちのために一日でも長く生きていなければという思いに突き動かされた日々でしたので、私としては寂しさよりは、やっと終わったという気持ちでした。

認知症を患って約2年半。今年の6月父は旅立ちました。

実直としか言いようのない性格で、そのために周りの方にご迷惑をおかけすることもたくさんあった90年でした。当然ながら家族も振り回され、困った存在であった時期もありながら、思春期に母との関係がうまくいかなかった私には常に味方でした。

ですから、最期までできることをしようと決めていました。

遠く離れていたため、母が大腿骨骨折で入院して父の認知症がさらにひどくなった時に仕事をやめようと考えました。その時に、「娘さんはお父さんがいなくなっても生きていくのだからやめない方がいい」と助言してくださったケアマネージャーさんの言葉は今でも忘れません。その言葉どおり、一か月に一回帰省しながらなんとか見送り、仕事も続けています。

高齢の母との関係では、それまでとは全く違い、見たことのないきずなを感じる時間でした。それをみながらとてもしあわせを感じて、この二人の子どもであることを何度も感謝しました。母は、父より年上だったので超老老介護でした。排泄に困るまでの1年半は母が介護をしました。よく頑張ったと思います。それでも、施設に入所させたことを悔やみ、もっとできたのではないかということもありましたが、母の体力としては限界だったと思い、施設入所を決めました。一時的に介護にかかわる私は母の思いをわかっていなかったかもしれません。

どこを通っても、何を見ても父との思い出を話す母は、とても父を大切に思っていて、それがこれまでの生活の中では見えなかったきずなだったのでしょう。

 

介護と一口に言ってもその環境によって問題は様々です。都会と田舎でもそのサービスの質もずいぶんと違い、悩むこともたびたびでした(田舎でしたので)。それは表に出ない部分で、家族の思いを汲んでもらえるわけではないと知り、愕然としたことも何度もありました。利用者の思いを救い上げるシステムによって、介護における質の向上が課題だと感じました。


父は大往生でした。その時間の経過をともに過ごす中で、「死」はとても自然で生活の中にあると教えてもらいました。最期はとてもあっけなく、言葉を交わすこともできませんでしたが、その前に自分の気持ちを伝える機会もありました。

父にこれまで幸せだったかと聞くと、間髪入れずに「そりゃあ、しあわせだったよ。子どもたちが立派に育った」といわれて、涙が溢れました。最期まで家族のことを考えていたのだと・・・。

 

父がいなくなって今思うと、介護が大変だったという思いよりも、あの時間が自分を前に向かせてくれると感じます。

いつか、自分の思いを書きたいと思っていたので良い機会でした。すべては書ききれませんがありがとうございました。

両親の看取りをして、本当に辛かったのに、特に父親は安楽死とは程遠い最期で、ベッドとか用意してあげてれば、顔も潰さずに、虫とかたかることもなく少しは綺麗な最期を遂げさせてあげたかったのは偽らざる事実で、幼少期に可愛がられたが、どうしても父親、男というのはとっつき難くて、最後の生前の言葉が、お前とは気脈が合わないなどと、またむずかしい言葉残してこの世から滅びて骨になっていくのがやはりヒトの世界は無情だということを常々感じてます。

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「あなたのおみとり」体験談

 

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