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「あなたのおみとり」体験談

みなさまからご投稿いただいた体験談をご紹介いたします。

体験談8|山本牧子さん

私の父は2024年8月に他界した。

体調が本格的に悪くなってからおよそ2カ月あまりのことだった。

病名はスキルス胃がんといい、おそろしく進行の早い胃がんだった。

6月中旬、電話で体調が悪いと父から聞いて、すぐに会いに行った。そのときは普通に歩いていたけれど、すごく痩せてしまい、不安を感じているせいか視点も合わないし、なんだか胸騒ぎが止まらなくなった。


その後、検査し、すぐに入院し、心身の急降下が始まった。

入院当初は、競馬をしたり、テレビもずっとつけっぱなしだったけれど、徐々に何もしなくなった。日ごろからたくさんの本を読み、趣味の多い父だったけれど、何もしたくないという感じで気力もなくなり思考低下も見られた。また、口からは何も食べれなくなり飲むこともできなくなっていたため、栄養補給法がどんどん変わっていくことで、身体がひどく痛々しくなった。痩せてしまったし高齢だし、皮膚も伸びて、こんなふうだったのかなと思った。ずっと一緒にいたような気がしていたけれど、私は今まで父の何を見て、父をどれだけ想って生きてきたんだろうとつくづく感じた。昨年、私は父に何度会ったのか、どんな話をしたのか、何も覚えていないくらい、父の体調に気づいていなかったことを悔いた。もっと大切にして、もっとしっかりとそばにいればよかったと思った。


弱っていく父のために、私のできることは都合をつけて病院に会いに行くことしかなかった。3日会わないと、無性に会いたくなり、そばにいたかった。そばにいるときは、何もしゃべってくれなくても私のことを見てくれなくても、父の手をただ握ってさすっていた。それくらいしかできなかった。何も力になれないことを泣いていたら、何もできなくても心配してくれる人がいてさすってもらうだけでも支えになると思うと友人が言ってくれて、また涙がこぼれた。

帰るときに「また来るね」と言うと、父はいつも「また来てくれ」と言った。一緒に帰れたらいいのにと、ひとりぼっちで病院に置いて帰るのが本当につらくて、帰りの電車の中で思いっきり泣き、自宅へはなるべく平常心に戻ってから帰った。


亡くなる前日、父は介護タクシーで、自宅へ戻った。

「家に帰りたい」という父の強い希望もあったけれど、とにかく帰らないと家族の誰もが思っていたと思う。

夜、下の三人の子供たちを連れて会いに行く。呼吸が荒い。「私のこと、育ててくれてありがとう。パパがいなければ子ども4人なんてとても育てられなかった。たくさん手伝ってくれたね。ありがとう。明日は泊りに来るから、一緒の家でまた寝ようね」と伝えると、ぎゅーってあたたかい手で今までで一番強く握り返してくれた。その手の強さ、私、一生忘れないよ。

私は今回、わかったことがある。死ぬことなんて、父は怖くなかったということ。父はもう死にたい、死なせてくれって本気で言っていた。すごくつらかった。何も食べられず、夜も眠れなくなり、身体が日単位で弱り、思考も働かなくなった。

かつての父の人生にはなかった、身体も心も過酷な2カ月だった。

今まで病気知らずに陽気に生きてきた父にとっては、生きている方が何倍もつらい日々だったと思う。普通に生きていられたら、楽しいこともあるけれど、大きい病気になってしまえば、つらいことばかりだった。

父が他界したら、私も死が怖くなくなった。三途の川を渡れば、そこには父がいる。祖父母もいる。牧子も来たんだな。牧子はどうしたんだって言うだろう。


私はこれから、今までできなかったことや、やってみたかったことを後回しにしないでやってみようと思う。自分なりの一歩で踏み出して、父が最後まで父らしく生きてくれたように、私の人生を生きたいと思う。「牧子の優しい気持ちが伝わるよ」「頑張り屋で我慢強い牧子、もう泣くな」、そんな風に人生の転機にいつも励ましてくれた父の言葉を胸に精いっぱい生きたい。

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